40年前のバングラデシュ独立後を伝える日本での報道です。
40年前の記事を電子化しています。
このため、現在では使えない表現や異なる地名・表記があります。
こちらの駐日バングラデシュ大使館資料にも当時の記事が掲載されています。
■日バ交流誌:Midori To Aka
http://www.bdembassy.jp/upload/pdf/notice/1385522850_pdf.pdf
■見出し(1973年10月18日他)
〇ラーマン首相来日 経済協力など話し合いへ
(朝日新聞 1973年10月18日)
〇ようこそ! ラーマン首相 心こめ園児らが救援金贈る_ラーマン首相来日
(朝日新聞 1973年10月19日)
〇幅広い経済援助要請 ラーマン首相 田中首相と会談_ラーマン首相来日
(朝日新聞 1973年10月19日)
〇バングラデシュの橋りょう工事受注 三井物産・大林組_その他の国々
(朝日新聞 1973年10月05日)
〇戦犯裁判やめぬ パキスタンによる承認、重要でない ラーマン首相語る
(朝日新聞 1973年10月12日)
〇ラーマン首相離日 共同声明発表 経済・文化面で協力_ラーマン首相来日
(朝日新聞 1973年10月24日)
〇エネルギー開発手始めに協力へ 大平・ラーマン首相会談_ラーマン首相来日
(朝日新聞 1973年10月24日)
〇バングラデシュへ通信設備を輸出 東芝と日綿_輸出
(朝日新聞 1973年11月14日)
〇バングラデシュの大統領が辞任_バングラデシュ
(朝日新聞 1973年12月25日)
〇東京に天然痘? 郵政省の職員を隔離 バングラデシュ旅行後
(朝日新聞 1973年04月01日)
〇ひと 日本バングラデシュ協会会長になった 早川崇
(朝日新聞 1972年06月10日)
〇会長に早川氏
(朝日新聞 1972年06月10日)
〇バングラへ初輸出 トヨタのジープ
(朝日新聞 1973年02月09日)
〇青年海外救援隊“兵士”が足りない…バングラで、南ベトナムで
(朝日新聞 1973年5月12日)
■ラーマン首相来日 経済協力など話し合いへ
(朝日新聞 1973年10月18日)
バングラデシュ人民共和国のムジブル・ラーマン首相は、十八日午前九時羽田着の特別
機で政府公賓として来日した。空港には田中首相、大平外相らが出迎え、ラーマン首相
は自衛隊儀礼隊の栄誉礼を授けた。
ラーマン首相は、令嬢のレハナ・ラーマンさん、令息のラッセル・ラーマンさんらとと
もにはじめて日本を訪れたもので、二十四日までの滞日中、十九日に田中首相と会談、
このあと屋居で天皇、皇后両陛下にお会いする。大平外相とは、京都見物や工場視察の
あと二十三日に会談する予定。
ラーマン首相は、昨年一月の首相就任以来、わが国からの経済援助に強い期待を寄せて
いる。従って、政府首脳とラーマン首相との会談では、経済協力間題がおもな議題にな
るとみられ、すでにバングラデシュに対し供与の決まっている九十億円の円借款の融資
条件について最終的な話し合いが行われよう。
また、バングラデシュは、同国を東西に分けるジャナム川に橋を建設する計画を持って
おり、とりわけ日本の協力を強く求めているが、ラーマン首相はあらためて協力を要請
するだろう。これに対し日本側は、現在、調査中であることを理由に具体的な約束は避
けるだろうが、前向きの姿勢でジャナム川架橋問題に取り組む姿勢を示すことになろう。
このほか、政府は、ラーマン首相の来日に合わせ、十九日の閣議で、国連からの要請に
基づき、バングラデシュとパキスタンとの難民の相互交換を促進する援助(交通費など)
を決定する方針だ。
■ようこそ! ラーマン首相 心こめ園児らが救援金贈る_ラーマン首相来日
(朝日新聞 1973年10月19日)
パキスタンから独立したものの、干ばつや疫病に悩まされているバングラデシュに救援
の手を差しのべていた学生や子どもたちが、十八日来日した同国のラーマン首相を温か
く迎えた。
東京都昭島市の私立「啓朋学園」、昭島幼稚園、国分寺市の東京経済大学、埼玉県行田
市の行田商高の学生ら三十人。
この日午後四時半ごろ、東京・南青山一丁目のバングラデシュ大使館にラーマン首相が
到着すると、園児たちは自分たちで作ったバングラデシュと日本の国旗を振って、「ジョ
イ・バングラ」(バングラデシュ万歳)と迎えた。同幼稚園の横山美紀ちゃん(五つ)は「
これ、わたしたちがおやつを買うお金から貯めたの。バングラのお友だちにあげて」と、
手製の貯金箱にぎっしりつまった約三万三千円分の硬貨を贈った。黒い詰めエリ服姿の
同首相は「ありがとう。ありがとう」。子どもたちの頭をなで、お返しのキャンデーを
一人一人に配って回った。
グループが贈った救援物資はノート三千冊、鉛筆八百二十ダースなど文房具と衣類がト
ラックニ台になり、現金も約十四万円に達した。
■幅広い経済援助要請 ラーマン首相 田中首相と会談_ラーマン首相来日
(朝日新聞 1973年10月19日)
来日中のバングラデシュ人民共和国のムジプル・ラーマン首相は十九日午前、首相官邸
で田申首相に会い、経済協力問題を中心に約一時間会談した。この会談でラーマン首相
は、独立後の日本の支援に感謝するとともに、バングラデシュが戦争の被害からまだ十
分立ち直れず、難民問題なども抱えて困難な状況にあることを脱明し、日本の幅広い経
済援助を要制した。とくにジユート、ガス、森林、石油などの豊富な資源を持っている
ことをあげ、日本の技術協力で開発したい、と述べた。
これに対し田中首相は、バングラデシュの独立後の復興努力を高く評価するとともに「
わが国としても出来る限りの協力をしたい」と述べ、続済発展に必要な調査団や経済使
節団の派遣についても積極的に要望してきてほしい、と伝えた。またこの会談でラーマ
ン首相は、来年一月に予定されている
田中首相の東南アジア歴訪計画にふれ「ぜひわが国からスタートしてほしい」と要請し
たが、田中首相は「外相と相談してから決めたい」と答えた。
バングラへ 円借款90億 政府決定
政府は十九日、バングラデシュへ九十億円の円借款を決め、その条件を発表した。それ
によると、返済期間は三十年(十年据え置き)金利は年約一・八七五%である。これは外務、
大蔵、通産各省と経済企画庁の協議で決まったもので、同朝の閣議後の会見で愛知蔵相
は「この融資条件は後発発展途上国に対する特別の条件で前例とはしない。ただ、これ
でも他の先進諸国の融資条件と比べ、なお条件が厳しいので、わが国としても後発発展
途上園に対する援助条件の緩和を前向きに検耐しなけれはならない」と語った。
また政府は同日バングラデシュに対して難民救済のための援助として百万ドルの無償供
与を決めた。
□ラーマン・バングラディシュ首相歓迎晩餐会における田中内閣総理大臣スピーチ
http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/JPSA/19731023.S1J.html
(東京大学東洋文化研究所 田中明彦研究室 データベース『世界と日本』)
ラーマン首相閣下、並びに御列席の皆様
わが国とバングラデシュとの間に外交関係が樹立されて以来、両国国民の願望であり
ましたラーマン首相閣下の御来日がこの度実現を見ましたことは誠に喜ばしく、私は日
本国政府及び国民を代表して、心から歓迎の意を表する次第であります。
申すまでもなく、バングラデシュ人民共和国の独立の過程及びその後今日に至る国家
建設の過程において、ラーマン首相が示された卓越せる指導力と御功績は、広く世界の
知るところであります。私はかねてより、ラーマン首相に深い尊敬の念を抱いて参りま
したが、この度貴首相に親しくお会いする機会を得て、更にその念を強めた次第であり
ます。
わが国とバングラデシュ人民共和国は、昨年二月外交関係を樹立いたしました。した
がって両国関係は、国と国とのお付合いとしては、比較的新しい仲といわねばなりませ
ん。しかしながら、わが民族とベンガル民族との心と心の触れ合いという点になります
と、実はもっと長い交流の歴史があるのであります。すなわち、わが国の明治時代にお
いて、ベンガルの生んだ、偉大な詩人にして思想家であるタゴールに、岡倉天心、大隈
重信始め多くのわが国の先覚者達との親交を通じ、わが国思想界、芸術界に大きな影響
を与えたのであります。明治時代といえば、わが国の近代化の基礎を形成した重要な時
期でありましたが、この時期にわが国の先覚者とペンガルの哲人タゴールとの間に深い
心の交流のあったことは極めて意義深いものがあると考えます。バングラデシュの国歌
はタゴール自身の作詞、作曲になるということであり、ベンガルの哲人は今なおバング
ラデシュ国民の心の中に生きているとの感を深くしている次第であります。
さて、一九七〇年秋以降、バングラデシュが悲劇的な全土にわたる動乱、未曽有の規
模の高潮等の大惨事に相次いで見舞われましたことは、われわれの記憶に新しく、その
間にバングラデシュ国民が筆舌に尽くしがたい苦難をなめられたことにつき、われわれ
日本国民は深い同情の念を有しております。かかる災害の爪痕は、今日なお深く残って
いるとうかがっておりますが、先日ラーマン首相よりバングラデシュの官民が多くの困
難にもめげず、新しい国造りに全力をもって当たられていることを伺い、感銘を新たに
した次第であります。
私どもも不幸な大戦争の後、極めて困窮した状況から復興に取り組んだ経験を有して
おり、目下のバングラデシュ国民の御奮闘に深い共感を覚えるものであります。私はバ
ングラデシュ国民がラーマン首相の英邁な御指導の下に一致団結して国造りに邁進され
れば、将釆必ずや成果をみるものと信じて疑いません。
わが国は、これまでバングラデシュ国民に対し食糧、衣料等の人道的緊急援助を中心
とする協力を行なって参りました。私は、今後ともバングラデシュの国造りに、わが国
としてできるかぎり協力するつもりでありますことを、あらためて明らかにしたいと存
じます。
貴首相は、日本での御日程をほぼ終えられ、明朝バングラデシュに向け帰途につかれ
るわけでありますが、御滞在が有意義、かつ、実り多いものであったことを心から願っ
ております。
御列席の皆様、ここに盃をあげ、チョードリ大統領閣下及びラーマン首相閣下の御健
康、バングラデシュ国民の幸福と繁栄並びに日本・バングラデシュ両国友好関係の一層
の発展を祈念したいと思います。
■バングラデシュの橋りょう工事受注 三井物産・大林組_その他の国々
(朝日新聞 1973年10月05日)
三井物産と大林組はバングラデシュ政府と同国シタラキヤ川にかかる橋りょう(長さ三九
〇メートル、幅十四.四メートル)の建設契約にこのほど調印した、と四日発表した。こ
の橋はチッタゴンから首都ダッカに至る幹線道路の一部。工事は二年前に始まったが、
印パ騒乱で中断し、新たに両社yが受注したもの。総工算五百万ドルは世銀融資からまか
なわれる。完成予定は一九七七年。
■戦犯裁判やめぬ パキスタンによる承認、重要でない ラーマン首相語る
(朝日新聞 1973年10月12日)
【ダッカ十日=永島特派員】バングラデシュのラーマン首相は十八日から約一週間の予
症で日本を公式訪問するが、訪日を前に十日午後、ダッカの首相官邸で日本人記者団と
会見した。同首相はその中で①バングラデシュの解放戦争を支持してくれた日本国民に
感謝し、日本ではできる限りあらゆるものを見たい②デリー協定で戦犯問題の延期に同
意したが、戦犯裁判の中止は今のところ考えていない③パキスタンはバングラデシュ承
認を遅らせているが、すでに世界の大多数の国々から承認を得ているので、あまり意に
介さない④中国がバングラデシュの国連加盟になぜ反対を続けるのか分からない-など
と述べた。
ラーマン首相の発言要旨は次の通り。
一、(訪日の目的について)日本はバングラデシュ解放戦争の前後を通じて、われわれを
指示してくれた国であり、またその発展ぶりは尊敬の的になっている。このすばらしい
国を訪れる機会を与えてくれた日本政府に感謝する。
一、(パキスタンとの関係正常化について)われわれは、さる八月二十八日のデリー協定
締結の際、戦犯裁判の延期と戦犯のインド抑留に同意し、現在、捕虜・民間抑留者の相
互送還を実施している。今のところ、戦犯裁判の中止は考えていない。
一、(戦犯裁判を中止し、パキスタンの承認を早く取りつけた方がよいのではないかとの
問いに)われわれはすでに日本や米国をはじめ世界の百十一力国から承認されている。パ
キスタンからの承認問題はそれほど重要ではない。
一、(中国の態度について)長い間、国連の外に置かれてきた中国が国連に入ったあと、
なぜわが国の国連加盟に反対するのか分からない。中国はわが国が国連決議を完全に履
行していないといっているが、わが国には外国軍隊はいないし、捕虜・民間抑留者はデ
リー協定に基づいて相互送還中である。われわれの目には、大国のパワー・ゲームのた
めに、東南アジアの小国の国連加盟に拒否権を使っているとしか見えないが、中国を非
難することはできない。
■ラーマン首相離日 共同声明発表 経済・文化面で協力_ラーマン首相来日
(朝日新聞 1973年10月24日)
さる十八日からわが国を勘れていたバングラデシュ人民共和国のラーマン首相は、二十
四日午前十時すぎ羽田発の特別機で離日日した。
これにさきだち、両国政府は十一項目の共同声明を発表、この中で両国がこんご経済、
文化、教育などの分野で緊密な協力を続けることを強調した。
とりわけ経済面では、ラーマン首相と田中首相、大平外相らとの協議を通じて合意に達
した①わが国からバングラデシュへの九十億円の商品借款②米の無償供与の検討③わが
国からの経済使節団の派遣などの項目がうたわれている。
■エネルギー開発手始めに協力へ 大平・ラーマン首相会談_ラーマン首相来日
(朝日新聞 1973年10月24日)
来日中のラーマン・バングラデシュ首相と大平外相は、二十三日午径三時から約一時間、
東京都港区の外務省飯倉公館で両国の経済協力問題について話しあった。その結果、日
本はことしから始まった同国の第一次五力年計画に協力することで、大筋の合意に達し
た。この会談で、大平外相は具体的なプロジェクトに対する協力を約束はしなかったが、
ラーマン首相に同行したイスラム国家計画委員長と島田石油開発公団総裁との会談で、
同公団がベンガル湾沖の海底油田開発のための基礎調査団を近く派遣することが決まっ
ており、両国の経済協力はまず、エネルギー資源開発が皮切りとなる公算が強まった。
この日はまず、ラーマン首相が去る七月から始めた第一次五力年計画の概要を説明、そ
の中で①農業の重点的開発と肥料工業の振興に力を入れたい②綿製品の輸入代替産業と
して、合繊工業を建設する一方、豊富な天然ガスを利用したポり塩化ビニール工業を建
設する③二、三万重量トンの益物船を輸入したい④ベンガル湾沖の海底油田開発を進め
たい―との意向を表明した。
現在実施中の第一次五力年計画は、初年度分しか確定しておらず、全体の計画ができる
のは、四週間後になるが、大平外相としては、日本が南西アジアに足場を固めるため、
同国の五力年計画に対しては、できるだけ協力したい、という態度を表明した。
「理解ある態度期待」日本記者クラブで演説
バングラデシュのラーマン首相は二十三日、都内のホテルで開かれた日本記者クラブ主
催の昼食会に出席し「バングラデシュと東アジア」と題して演説した。このあと同首相
は質問に答え「日本からの援助は利己的動機にもとづくものではなく、主権の平等の原
則にもとづいた援助だと思う。わが国に対して特別の理解ある態度を期待する」と語っ
た。
■バングラデシュへ通信設備を輸出 東芝と日綿_輸出
(朝日新聞 1973年11月14日)
東京芝浦電気と日綿実業は十三日、バングラデシュの電電公社向けにマイクロ波通信設
備一式(約九億円)を輸出すると発表した。
同設備は首都ダッカと北部三都市を結ぶもので、同国独立以来初めての日本との商談と
いう。
■バングラデシュの大統領が辞任_バングラデシュ
(朝日新聞 1973年12月25日)
【ダッカニ十四日=ロイター】バングラデシュ政府は二十四日、チョードリ大統領が辞
任し、外交・国際機関担当の政府の特別代表(閣僚)に任命されたと発表した。これに伴
いマームド・ウラー国民議会議長が大統領代行に就任した。
政界筋は、憲法上の間題でチョードリ氏と政府首脳の間に深刻な対立があったことが辞
任の主要な理由であると指摘している。
■東京に天然痘? 郵政省の職員を隔離 バングラデシュ旅行後
1973年4月1日
東京都衛生局と厚生省が三十一日明らかにしたところによると、三月十八日にバングラ
デシュから帰国した郵政省職員が、三十一日午後五時、天然痘の疑いで東京・大田区の
都立荏原病院に隔離収容された。国立予防衛生研究所で患者の膿福(のうほう)を検査し
ているが、衛生局では症状からみて天然痘の疑いが濃いため同日午後七時すぎから患者
の自宅付近の住民に対して緊急の予防接種をはじめた。もし天然痘と断是されれぱ、日
本での天然痘発生は昭和三十年以来のことである。
都衛生局の発表によると、この患者は束京都千代田区九段北四ノ三〇ノニ〇郵政省職員
宿舎内、同省電波監理局放送部業務課課長補佐 ○○○○さん(三十二)。○○さんは、
郵政省の仕事でことし二月八日、日本を発ち、バンコクに一泊したあと、九日から三月
十六日までバングラデシュの首都ダッカに滞在。その後バンコクにご泊して十八日にホ
ンコン経由の飛行機で帰国した。帰国後六日目の二十三日に発熱、体が重く、二十六日
から東京逓信病院に入院していた。
その後、三十九-四十度の高熱を出し、顔、手足、胸なとほぽ全身に発しんが見られた
ため、東京逓信加院では天然痘の疑いがあるとして、三十一日正午すき都衛生局に連絡、
同局でも症状からみて天然痘の疑いが濃いとして隔離した。
○○さんは渡航前の一月十日ころ、外務省医務室で種痘を受けているが、都衛生局では
①滞在地のバングラデシュが天然痘の流行地である②天然痘が発病するまでの溜伏期間
が約二週間であり、○○さんのバングラデシュ滞在時期から発病までの期間と一致する
③○○さんはバングラデシュ滞在中の三月十日ごろ、買物で現地人と接触している、な
どの点からバングラデシェ滞在中に感染したのではないか、と推測している。
都衛生局では、天然痘の感染拡大を防ぐため○○さんを隔離すると同時に、○○さんの
妻(二十九)と生後十ヵ月の長女も都立荏原病院に隔離、健康観察をしている。また、
麹町保健所では、○○さんが住んでいる郵政省職員宿舎の八十世帯に対しても三十一日
夜七時すぎから緊急の予防接種をした。○○さんの勤務先である郵取省にも連絡し、必
要な予防措置を取る方針。また、国立予防衛生研究所の検体検査で真性の天然痘である
ことがはっきりすれば、衛生局内に緊急対策本部を設置する。
衛生局の話によると、感染の危険性が強いのは患者の発病後であるため、○○さんの発
病後、○○さんと接触した人には感染の恐れがあるが、それ以前は感染の恐れはほとん
どないという。
◆本当なら18年ぶり バングラ、インドで流行_東京に天然痘発生
厚生省の調べでは、戦後日本での天然痘患者の発生は、終戦翌年の昭和二十一年がピー
クで、この年は真性と疑似を合わせて一万七千九百五十四人で、うち三千二十九人が死
んだ。その後は防疫態勢が強められて、しだいに患者の発生は少なくなり、真性患者の
発生と死亡者は昭和二十六年を最後にとだえた。疑以患者も、昭和三十年、佐賀県内で
一人発生したきりで、その後十八年間まったくなかった。予防接囲法で、日本国民はす
べて腫痘を義務づけられている。しかし、実際に受けているのは約七〇%。
世界的にはアジアを中心に猛威をふるっており、世界保健機関(WHO)に届けられた去年一
年間の患者数は、世界全体で六万四千九百四十二人。なかでもインドとバングラデシュ
に多く、ほかにパキスタンでも発生している。今年はインドが前年同朋の二倍、バング
ラデシュでは十倍以上というすさまじい流行だ。
厚生省によれは、天然痘の前期症状は、種痘した人もしていない人もほぼ共通で、発熱、
頭痛、だるいなどの症状が出る。三、四日後にヒフに赤いブツブツができ始め、種痘し
ていない人は水泡(すいほう)がウミを持つ状態となり、カサブタ状になる。死亡率は平
均二〇%で、死亡しなくても、アバタが残る。種痘をやった人の場合は、水泡やウミを持
つ時期が短く、症状も軽い場合が多いが、死に至ることもあるという。
長い間、天然痘の発生がみられなかった日本では、病気そのものよりも種痘による脳炎
などの後遺症が問題にされた。とくに後遺症による幼児の死者が相次いだことが国会で
も論議され、厚生省は四十五年夏、死後に最高三百三十万円を支給する後遺症救済措置
を決定している。
ただ、いまのところアジアでの流行が猛威をきわめ、そのアジア各国と日本の交流がま
ずます密接になっている現在、義務種痘は当分、従来通り続けるという空気が大勢蟄を
占めている。
■ひと 日本バングラデシュ協会会長になった 早川崇
(朝日新聞 1972年06月10日)
ことし三月、バングラデシュ人民共和国を政府特使として訪問。池田内閣の自治相兼国
家公安委員長当時、駐日米大使刺傷事件で辞任。佐藤内閣で労相。和歌山2区から当選1
0回。55歳。
ジュート(黄麻)と詩人タゴールの国、東パキスタンが死者三百万、難民一千万という大
きな犠牲を払って、西パキスタンから事実上独立したのはことし1月。日本は米国に先
がけてこの新しい国家を承認したが、推進役をつとめただけに「戦後初の自主独立外交」
「唐(から=中国)ばかりでなく天竺(てんじく=インド亜大陸)との外交も重要」と鼻た
かだかである。
多いとはいえないまでも、八百万ドルと米五万ドルの援助をはじめ、同国を二分する川
幅八キロのブラマプトラ(ジャムナ)川への「平和と友好の橋」架橋計画も具体化しよう
としており、両国関係はまずは順調に滑り出しそう。
東大卒業後、海軍主計将校を五年足らず勤めて終戦。一度は内務省入りしたが政界に転
じた。昭和三十五年の浅沼、鳴中事件後に「政治的暴力規制法案」を立案したり、「保
守主義の政治哲学」を費して党大会で採択させたり、労相当時はは週休二日制、定年制
延長を説くなど、政策通。また、理論好きで、雄弁家だが「きれいごとをいいすぎる」
の評も。
政界での軌跡は、国民―国民協同―改進―民主―自民と「わが道」を進んだ。だが、既
視政権末期の「行過き」に反発して岸派を離脱、また池田三選支持の三木武夫氏に対抗
して三木派内に佐藤擁立の”早川連隊”をつくるなど、わき目もふらず、というわけで
もない。
いま、三木派代表世話人のひとり。だが「福田好きですよ」と自認する。みずから翻訳
した「英国政党論」を引用しながら「総理、総裁は争ってなるものではなく、おのずか
ら生れるもの。派閥抗争や金をばらまくような風潮は改め、話し合いで決めるべきです」
という。いざ出陣の三木氏には、さぞ目ざわりな存在だろう。(潮)
■会長に早川氏
(朝日新聞 1972年06月10日)
日本バングラデシュ協会
パングラデシユ人民共和国との友好をはかろうという「日本バングラデシュ協会」の発
会式が九日、東京・永田町の憲政記念館で開かれ、会長に早川崇自民党代議士を選んだ。
同協会には国会議員ら約五十人、約六十の法人が参加しており、この日の発会式では①
ブラマプトラ川架橋計画推進②繁急物資援助の推進③医療、農業技術などの留学生育成、
などを決議した。
■バングラへ初輸出 トヨタのジープ
(朝日新聞 1973年02月09日)
トヨタ自動車販売は、バングラデシュ輸入公団からランドクルーザー(ジープ)二百台、
約二億円を受注した、と八日発表した。これは、同輸入公団が行なった国際入札で落札
したもので、バングラデシュが独立してから初めての対日契約。
トヨタ自販によると、この国際入札では、同時に西独のフォルクスワーゲン社がマイク
ロバス百台を落札した。
■青年海外救援隊“兵士”が足りない…バングラで、南ベトナムで
(朝日新聞 1973年5月12日)
ベンガル湾岸のある町で、インスタント・ラーメンの山がカラスのつつくままに放置さ
れ、そのそばに飢えた人びとが倒れているのを目にしたとき決意は定まった。「救援物
資には、その物資を提供した国の人がついて行くべきだ」―青年海外救援隊(事務局、
日本青年奉仕協会内、電話=東京四六〇―〇二一一)はそうして生れた。隊長、吹浦忠
正さん(三十ニ)。いま、ベトナムで得た肝炎をいやす病床で「戦うに兵なし」の心境
である。
一昨年九月一日、吹浦さんは「東パキスタンでの赤十字社連盟の活動に参加できる人は
いないか」という連絡を日赤から受けた。高校以来、青少年赤十字運動をつづけ、当時
“自由業”状態にあった。すぐに「自分で行く」と答えた。
その土地で吹浦さんが見たものは、騒乱による無数の死だった、そして、各国から三百
人もの青年が救援活動に来ているのに、日本人は自分ただ一人、という事実だった。
ある町で、道端にインスタント・ラーメンの山を見た、無数のカラスがたかっていた、
飢えた人がごろごろしているのに、食べ方のわからないラーメンにはだれも手を出さな
い、ラーメンに限らず、救援物資は日本からのものが圧倒的に多い。配るのは白人たち、
救援の効果は半減していた。
昨年九月に帰国したとき、ラーメンの山に触発された決意は、青年海外救援隊という形
になって現れた。救援活動に関心のある人が集って、いつでも飛出せるようにふだんか
らトレーニングを積んておこう一昨年秋、銚子の青年がまず隊に加わり、バングラデシュ
に飛んだ、ある郵船会社を退職した二十六歳の青年がいま、ラオスに飛ぶため準備中で
ある。
隊長自身もこの二月はじめ南ベトナムに飛び、解放区に八回も入った。べトナムの人び
とも、はだの色が同じということだけで吹浦さんを信頼してくれた。過労。肝炎にかか
って四月二十九日、帰国。病院で隊長はイライラしている。現隊員十四人。大学院生、
商店主、銀行員、会社社長。各地で無数の傷ついた人、病んだ人が救援を待っているの
に、これではあまりに少ない。
国際赤十字の要請が日赤に入ると、
日赤は隊に連絡する。志願者は日赤の嘱託になり、交通日、給料、滞在費などか支給さ
れる。現地で、医療班と行動をともにしなから、救援切資を配ったり、医療、生活指導
などをおこなう。
将来は隊で資金を持ち、独自の救援計画をおこないたいと、吹浦さんの夢は大きいが、
いまのところはいわば”私的”な隊である。入隊資格は、英、フランス、スペイン語のい
ずれかかできること海外渡航の経験があること、青少年運動のリーダー経験があること、
などといささか厳しい。「しかし」と吹涌隊長は思う。「これらの資格を持った人は、
いまの若い人の間に多いはずた。このような救援活動は、いわばドルを使うのが仕事で
す。いまの日本には、ドルをもうける専門家は多いが、ドルを使う専門家が少ないと喚
く。

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